知的生産活動に娯楽性を見い出そう
TL;DR
- 生成AIの進化によって自分よりも知的水準の高い存在が利用可能になった
- 生産性や効率の向上は重要だが、それを追い求めすぎると知識労働者は辛くなっていくので、娯楽性を見出すのは重要そう
- せっかく素晴らしい時代に生まれたので、楽しみたい
いまさら言うまでもないが、生成AIの進化は凄い。
AGIやシンギュラリティの定義が何かという問題にはあまり興味はないが、自分の人生において決定的に重要なことが1つある。 それは、自分よりも知的水準の高い存在に何でも・廉価に・いつでも依頼や議論ができる、ということだ。
もちろんまだ適用範囲は限定的なところがあり、よく定義された問題がある状況では自分よりも賢く解を出せる、という段階ではあると思う。 しかしながら、こんなことが起こるとは5年前の自分に言ってもまるで信じなかっただろう。 問題を定義する(問いを立てる)という知的活動も、人間が特別であるという理由は特に考えられないので、時とともに自分よりも賢くできるようになるだろう。 もしかしたらもうなっているのかもしれない。
こうなると、自分の人生においても多くの時間を占める知的生産活動の大部分に生成AIが入り込んでくる。
最近就職活動をしているのでいろいろな人と話をすることが多いが、話す人は知識労働者がほとんどであり、生成AIの話題が出ないことはない。 ウェブ上でも生成AIに関する大量の情報が生み出されている。
知識労働の文脈で生成AIについて語るとき、生成AIを用いた新たな価値の創造や、生産性や効率化の向上などの話題が多い。 とりわけ後者の観点は、分かりやすくリターンが得られるし、実際にやれることも多いので、多くの会社で取り組まれているように思う。
会社としては取り組むだけの十分な理由があるし取り組むべきとも思うけど、一方で個人としてその行き着く先が何なのかは考えてみる必要があるように感じる。 生成AIの導入とともに我々の仕事がなくなるかもしれないみたいな job security の話をしたいのではなく、その仕事がどれだけ楽しくて人生にとって意味があるか、ということだ。 自分が見聞きした範囲では、少なくない人が個人の知識労働に関してあまり良い未来を想像していないように感じた。 未来のことは分からないのはそれはそうなんだけど、「どうなるか分からないけどきっと楽しいものになる」みたいな感覚はあまりなさそう。 自分がやってきた活動の多くは生成AIで代替できるので、そしたら自分は今後何をやっていくのか、という悲観や諦観のニュアンスを含んだ疑問である。
自分の意見としては、もっと日々の知的生産活動に娯楽性を見い出した方がいいと思う。 これに関しては以前に以下のような post をしていたが、実際に自分は娯楽性をより重視するようになっており、生成AIは自分が楽しく学ぶための議論相手として使うことも多い(もちろん自分では書くのがダルいコードを書かせるなどもしている)。
AIの性能がどんどん高まる結果、学問は娯楽の要素が強くなると思われるので、先取りして楽しんでいます。
— Yohei KIKUTA (@yohei_kikuta) January 16, 2025
具体例として論文を読むことを考えたとき、情報を要約していかに効率的に摂取するか、みたいな観点を突き詰めすぎると結構辛そう。 摂取した情報を使って別の何かをすることも含めて、生成AIの方がより賢く、そして圧倒的に早くできる可能性が極めて高いので、自分がやる意味がないという着地になりそう。 生成AIには勝てないし、また勝つ必要もないので、もっと自身の趣味嗜好や好奇心を満足させるために論文を読んだ方が人生が豊かになっていくのではないかと思う。
娯楽性の話になるとそれが仕事として成立するのかという話はあるが、既に述べたように将来の仕事について話したいわけではないので、それは置いておく。 自らがこれまでやってきたような楽しい知識労働を自身の手で生成AIに置き換えているという自覚がある人は、知的生産活動における娯楽性を積極的に見い出して日々を生きていけるようにした方がいいように思う。
知的生産活動に娯楽性を見い出せるならば、生成AIを使うのは楽しいことこの上ない。 なにせ、自分が興味・関心のある殆どの領域において、自分よりも賢い人を捕まえていつでも議論できるようなものなのだ。 あまりにも exciting な時代に生まれたことに感謝して、知的娯楽を嗜んでいこう。